命の木にようこそ
在米30年を迎える保健師から看護に興味を持っている方に送る便りです。毎日の暮らしは殆ど英語ですので、古めかしい日本語をお許しください。といって、英語が出来るかと言えばそれも怪しい。若い時、聖書とナイチンゲールの看護覚え書き(現代社)に触れなければ、今の自分は無いだろうと思っています。21世紀デジタルの時代、次の世代に語り継ぐにはと模索した結果がこのサイトです。
現代社よりの総合看護誌をこの30年おくっていただいている以外は、日本の看護については全く無知です。子供たちが巣立ち、日本に帰る機会が与えられ、また、この2.3年、父の事故、病いを通じて日本の看護を垣間見させていただきました。日本の看護のお役に立てたらと願っていますが、ピントがずれているかも知れません。ナイチンゲールの昇天100年を記念して2011年は、国際看護の年。ウェブサイトが起こされ、私の小文、“The Blue Clouds of Hope” が載りました。それを、日本語に訳してみましたが、難しいですね。どうぞ、ご意見お寄せください。
現代社:ナイチンゲールに関する著書。
http://www.gendaisha.co.jp
聖書に触れた事、読んだ事ありますか?
ハーベストタイムは良い窓口になるでしょう。
http://www.harvesttime.tv
Original 2011 statement
2023年。桜の咲く日本への訪問が出来ました。遠いですね、日本。距離だけでなく言葉も習慣も、特にカタカナ日本語、意味がシステムが分からない。でも、このような疎外感は、誰にとっても日常茶飯事ではないかなとも思います。認識する事なく心の奥底に幾層にも押し込めた痛み/トラウマとして、時には心身の健康に関わります。
保健師の役割の一つは、助けを求める言葉を持つ事が出来るように援助して関わる。この経験を活かして、アートと公衆衛生看護を結びつけた廃棄物利用の3D作品を紹介します。
2014年、ロンドンのセント ーマス病院にある小さなナイチンゲール記念館の展示 Word Game BREATH (ことば遊び 息)に出会ってから俳句・短歌 程の短い文が出来ないかと模索している中間報告というところでしょうか?
2年毎に3月、ロンドンで開催される英国連邦看護・助産師会議 (CNMF)で2018年に、Word Game BREATH, として、2020年には Word Game TREE (ことば遊び木)を発表しました。
オリジナルは B・R・E・A・T・H のアルファベットから、いくつ単語を思いつけるかを競い合うもので、Bからは例えば BABY、BIRD, BODY などがあげられます。それを組み合わせて文にする目的はありません。そこで、起承転結になるように4文字 T・R・E・E を使って、色々な想いをことば遊びを通して本に仕上げる。さて、このアイデアを日本語に転換するにはどうすれば良いのか、新たな展開です。
いつの日か、ナイチンゲールが看護を学んだドイツ、デュッセルドルフにあるカイゼルスウェルト学園を訪問したいと夢見ておりましたが、思いがけずこの8月、実現出来そうです。枝を伸ばし、花をつけ、結実。そして、違った土壌にその種が蒔かれ、新たな木が育つ日を思う。
祖父が短歌にして委ねた
ー星雲の希望は尊し 若人の夢は 宇宙を駆け巡るーの祈りは、
祖母の言葉
ー夢は大きく、棒ほど願って針ほど叶うー
と共に私の内に生き続けています。
青雲の希望
青雲の希望は尊し
若人の夢は
宇宙を駆け巡る
その昔、祖父が私に、書いてくれた短歌です。
看護学校に行きたいという私に、女の幸福は"良妻賢母"と信じる祖父は賛成しませんでした。ナイチンゲールの頃とそう変わりません。将来、家庭を築いたときのために学びたい、仕事をしたいのではない言う私の願いを聞いて、祖父は承諾してくれました。宇宙を駆け巡るというのは、いささか、現実離れの観がありますが、それは、祖父の適えられなっかた夢かもしれません。祖父には、若い頃、渡米した末の弟、田中儀一がいました。彼らは、文通だけで、訪ね会う機会はありませんでした。その儀一おじさんが手紙を書いてくれました。看護婦になろうとする私を誇りに思う、百歳になっても、看護婦になった私を待つ、彼の医者は、長生きを保障してくれているという内容でした。
1978年の春、私は3ヶ月のアメリカ旅行に、羽田空港から旅たちました、最初の2ヶ月は、バークレイで英語を学 び、汽車で、東海岸のニュウハンプシャー州の州都キーン市で、ホームステイ、そして、ニューヨークに行く予定でした。キーンに滞在しているとき、儀一おじさんの夫人から、彼が2年前に81歳でなくなったという手紙が届き、カミングストリートのアパートに私を招いてくれました。ダンボール箱に、彼の残した日本語の詩、短文、小説等の日系新聞からの切り抜きが、入っていました。夫人は日本語を理解できないのに、それを、必死に写しがきする私に、その箱を譲るとはいってくれませんでした。帰国は、厳重な警備体制の新成田国際空港で、父と着物姿の母が迎えてくれました。母は、鳥のようにたずねた私に儀一おじさんが会えなくてよっかったと、又、彼の書いたのは大したものじゃないと言うのでした。
この旅行の前に、退職していましたから、夏の間、いろいろ考える機会が与えられ、9月のエルサレム、イスラエルでの国際助産婦大会に参加への旅に備えました。その聖地に身を置いたその体験は、今の自分を形造ったといえるかもしれません。この以前には、イスラエルの歴史も、殆ど知らず、聖書を開いたこともありませんでした。熱心なクリスチャンの助産師Tさんは、ご自分で、ガイドと聖地巡りの小旅行の手配をされていました。いつも聖書を小脇に携えたガイドのMさんは、如何に、私が "イスラエルの国名は何処からつけられたの?” と、何も知らないのが直ぐにわかるような質問をしても笑うようなことはありませんでした。滞在も終わる頃、小さな石の教会で、彼は私に、"賛美歌を歌って"と言いました。賛美歌? 冗談でもからかって要るのでもない事は、良くわかりました。
Tさんに紹介されて、内村鑑三によって始められた無教会の聖書研究の集まりに参加し、聖書を読み始め、アメリカにまた、行く準備をはじめました。旅たつ2,3日前、バークレで最初の日曜日に出会った中国系4世の未来の主人に電話をかけました。"僕が日本に行くから、待て"と言う答えに、"はい"と答えました。この電話は、私にとって、"信じて“生き始めた最初の一歩です。すべての準備を取り消し、看護短大の母性衛生看護の教師につきました。
その後、いろいろな出来事がありましたが、ひとつの事、祖父との約束、を忘れる事はありません。看護の学びをしたのは、家族の為:私の嫁ぎ先の苗字リオングが、漢字で“梁”と書くと知り、聖書にその字が書かれている御言葉に教えられました。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向かって、あなたの目から
ちりを取らせてください、と言えようか。(マタイ書7章4節)
梁は私!現在、保健師として働いていますが、よく、実際のお産に立ち会う訳ではありませんが助産師と紹介もします。若い母親が、限られた状況の下、精一杯、育児をするために援助できる仕事だからです。いつも、心がけて自分に問う事は、”何故、その人がそうするのか?”そして、”何故、私がそうするのか?”彼らが次の世代を育てているのです。